物事の上達

物事にはやってくうちにスキルが上がって楽しさがわかるようになるものは多い
でも人間って正直だから最初がつまらないとそのままやる気が出ない
趣味を例に挙げると、
スポーツは運動が不得意だと敷居が高い
ゲームは苦手な人にとってはやるのが難しい
小説は読解力が足りないと理解することができない
こんな風に人間の趣味っていうのはある程度、教養とか前提条件が必要なものが多い気がする
その中で、パチンコとかYouTubeとか、特に前提として何もなくても楽しめるものは万人受けする
こうしたものの面白さは確かなものだとは思うけれど、それだけでしか楽しめないっていうのは悲しい。生きているのだから、色んなものの楽しさを味わいたいと個人的には思う

学歴は親ガチャなのか?

親ガチャ+環境+本人の資質

大きく分けてこの3つが学歴に影響を与えていると思う

資質がない人は、親ガチャ+環境の要因がでかくなるし、、資質がある人は資質だけで何とかなるような仕組み

ただ自分の資質だけで高学歴になれる人は一握りだし、そこまでの資質がある人にとって学歴なんて全く必要ない

資質がない人でも異常な親の狂気さえあれば高学歴になれるのが今の学歴社会だと感じる

親ガチャと環境は正の相関関係があって親ガチャで成功すると環境も良くなることが多い(ここでは子供に勉強をさせることに精を出す親を仮に成功と定義している)

よって多くの人にとっては親ガチャが9割を占めていると言っても過言ではない

親が勉強を教えるかどうか、周りが勉強している学校に入るか、塾に通わせてもらうか、ライバルがいるか、などが具体的な要因

本人の資質は

記憶力が良い、卓上での勉強が好き、明確な理由なしに勉強に取り組める、学校の授業内容に強い好奇心を持つ、要領が良い、理解力が高い、負けず嫌い など

これらの資質のうちいくつかは後天的に教育によって身につくものもある

こうしたことが複合されて学歴が決まっていると思う

 

 

銀の匙はハッピーエンドなのか?

銀の匙 82点

主人公八軒を中心としたヒューマンドラマ+コメディのような物語

最終的に全てがハッピーエンドになっている。ようにみえる

八軒は夢、やりたいことがないキャラだったが、途中から起業することが目的になっている。夢のなかった八軒が夢を持ててよかったという風に感じる。それは、彼が元持っていた良い大学に行きたいという目的は自分の夢ではなくて、環境によって決められた夢だからであるから。

作中、彼には何かしないと、のような夢に対する欲求が描かれている。ノーブランドがみんなで集まって収益を上げていく会社を作りたい、という夢はその欲求から生まれたものである。農業高校という狭い視野の中で生まれた夢なのだ。

彼は自分で夢を見つけたように思えて、実は、環境によって決められた良い大学に行き、エリートコースという将来から逃げ、それによる負い目から無理やり起業という目的を作り出したとも言える。逃げる事は悪いことではない、と作中で述べられているが、彼はそれを理解しつつも、無意識では負い目があったと思われる。

まあ、高校時代の八軒は逃げることの大切さを知っているため、起業が失敗したら別のものに逃げられるとは思う。

 

追い討ちをかけるようだが、起業も順調とは言えない

ノーブランドがみんなで集まって収益を上げていく会社を作りたいと言っていたが、最終巻では豚事業の途中で物語が終了している。

高校2年の夏から初めて大学4年の夏まで5年。軌道に乗ってない豚事業。事業変えるべきでは?それにあの父親がこれを許すとは思えない。

まあ事業を途中にすることで、可能性の広がりを描きたかったんだろう

新しいマルチ商法の形

前まで俺が思っていたマルチの人がやっていること

 

1.物を会社から自分で買う

→それを誰かに売る

 

2.マルチ商法に勧誘する

 

この2つだと思っていた、実際今でもこういうところはあると思う

けど、この前知ったマルチの内容は少し違っていて

1の内容が、「会社の物を誰かに売る」になっていて、自分を経由することがなくなっていた。

具体的には、水を売ってるとこなんだけど

水を顧客に売る、か顧客を水の事業に誘うの2択でお金が入る。

自分で水を買うと、自分の売り上げ、誘った人の売り上げの一定の金額が貰える。

だから報酬−水の購入代金がプラスなら儲かるって感じ。

商品を先に買ってたのが後に買うのに変わった感じ。

おそらくマルチ商法が怪しいイメージが世間に広がりすぎて、マルチ商法の会社が従来のやり方を変えたんだと思う。

新しい方法なら多大な在庫を抱えて借金に追われることはないのかなーなんて思いそう。

でも営業とかの高い講習とかめっちゃ勧められるんだろうね

車輪の下 考察 道を誤った承認欲求の囚人

車輪の下

ハンスは、自分の意思を持っていない結果、他の誰かに利用される形になり、一方的に自爆してしまう。

利用される順番で言うと、

父親

地元の校長

神学校の校長

ハイルナー

エンマ

機械工仲間

となっている。

父親、両校長には彼らの虚栄心のため。

ハイルナーには心の安定のため。

エンマ、機械工仲間には楽しさのため。

父親が最後、優しくなったのには、ハンスに利用価値が無くなったからだと考えられる。

だが、決して彼らは本心でハンスを利用しようなどとは考えていない。自分の欲望に従った結果、ハンスを利用するような形になってしまったのだ。利用する、とは一方的にハンスから見返りを貰うということ。ハンスは自分の欲望に上手く従えていなかったため、彼らから貰う見返りが曖昧になってしまった。

そこには、自分の意思を持たず、他人からの評価により自分の心を満たしていたハンスの性質が関係している。承認欲求に囚われていたと言っても良い。そのため、どんな時期でも、人から承認欲求されることに本質を置いていて、それに沿った行動をとっている。序盤では良い成績で神学校に入り、周りを見下し、認められることで承認欲求を満たそうとし、中盤ではハイルナーに承認されようとする。ここでは、周囲の人々の承認とハイルナーの承認を比べ、一度周囲の人々の承認をとっている。

終盤では、エンマの承認を得ようとするが、エンマはハンスの承認など考えていなく、一時的な楽しさを求めていたため、すれ違いが起き、ハンスは承認されなかった。

最後に機械工仲間に承認されるために、自分の許容範囲を超えた酒に付き合い、人知れず川に落ちて、死に至る。

物語の冒頭で、ハンスは才能に恵まれていたとある。だが、物語を読むと、一貫して、凡人である。ここに承認欲求の恐ろしさが隠れていると思われる。自分の意思を持たず、承認欲求に囚われた人間の末路がハンスだと言っても良い。

では、そうなってしまったのはハンスの責任であるのか。確かにハンスには何度か自由になる糸が垂らされており、それを自分から拒むシーンがある。例えば、勉強しすぎじゃない?に対して、嫌じゃないし。のような。

こうしたことからハンスにも責任はあると感じられなくはないが、ハンスは自分の意思を持っていなく、承認欲求に囚われているので、自由になる糸を選択できるはずがない、というより選択する意味がないのだ。

このことから、ハンスは悪くない。しょうがないのだ、意思がないから。なぜ意思がないのか。それは教育のせいである。

ハンスは才能があり、周囲の人々には知恵がなかったため、彼の人生のレールは決定された。彼にあった才能はおそらく、理解力。物事を理解し、それに適応する能力が高かったのだ。しかし思考力が無かったため、自分の現状と未来を思考することが出来なかった。そしてその思考力は養われることはなかった。周囲の無知によって。こうして彼に意思は生まれなかった。

それでも、勉学の道にだけ進めばまだ何とかなったであろう、才能があり、精通していたのだから。しかし、その道からそれて、精通していない道に入った結果(友情、恋愛)、彼は承認されなかった。元の道と両立する才能は彼にはなかった。それが重なり、壊れてしまう。

これは才能のある子供を、周囲の無知によって、承認欲求の囚人にしてしまい、不幸にも承認が続かなかった物語だ。

 

ここから先は読みながら感じた感想

第1章

ハンスの神学校に入るまでの話

本人は落ちるていると思ったが、実際は受かっていた。その瞬間解放されたかのように、釣りに没頭している。なぜ自分の想像と結果に違いがあったことに疑問をもっていないのか。このことから、神学に入ることが目的で、そのための勉強などハンスにとってどうでも良いことがわかる。また、結果主義である。

第2章

ハンスの休暇の話。釣り好きだった少年が、勉強することに洗脳?教育?されている

今の時代の教育ママの息子のような息苦しさを感じる。そしてハンスは息苦しさを嫌っている。難解な文章を読むのが好きであり、他はあんまり。

また、他人を下にみて優越感を覚えている。

ここからハンスが向かう先が気になる。

‪承認欲求はうちから出てくるものだと思っていたが、ハンスを見ていると周囲の環境が生み出すものとも考えられる‬

第3章

神学校に入学。

ハイルナーが非常に魅力的に見える章。直感で。

苦しい、なんだか妙にリアルで、それでいてファンタジーで。ハイルナーのことを深掘り思考すると、嫌いになりそうで、思考するのが怖い。

ハンスの気持ちもよくわかる、ハイルナーの気持ちもよくわかる、だからこその苦しみ

自分がハンスの立場だったら声をかけれたか、自分がハイルナーの立場だったらハンスとこれまで通りできたか、いやハイルナーの立場からはどうすることもできない、ここで自分から行くことは下になることを意味する

対等な友人関係ではない

 

第4章

なんでヒンディンガーが湖で溺れてるとわかった?

→誰かが見ていた?しかないよね。死体見つけてたら捜索なんて言わないし。

ハンスはハイルナーに人生狂わされた可能性がある。ハイルナーの根本にある感情とは。彼は手紙を送ったのか、その上で没収されていたのか。

→ハイルナー自分のために生きている。手紙を送っていたとしても、依存しているわけではないし、おそらく送っていない。

ハイルナーは立派な大人になる。だよね。彼の性質はそうなっている。

第5章

ハンスの精神が病む。自殺しようとするが、それを決心したとき少し心が軽くなり、まだ生きる。ハイルナーに長い手紙を書いたことからわかることは?

→ハイルナーに承認され続けたかった

第6章

エンマとのエピソード。ハンスを描く点ではこの話題は避けては通れない、彼はまた、利用されてしまうのか、というか利用されていたのか。

第7章

また、利用されたぁ。

ハンス死んだなぁ。

ハイブランドについて簡単に思考

ハイブランドで固めることについて

今回の話は、ハイブランドをステータスとして使う場合の話。そのブランドの柄がまじで好きだから買ってる、みたいな人は対象としていない。

拡張自我というものがある。身に付けるものを自分の一部だと思い込むこと。

つまりイケてる集団にいてイケてるもの(ハイブランド)をつけていれば多少はイケてる風になるし、自分でもそう思い込む。思い込みすぎる。

そのため、あまりに場違いすぎると、ただの浮いてるやつになってしまう。

本当に自分に自信があれば、そんなもの必要ない。

ただ、良いものを身に付ければ少なからず周りからの評価は上がる。金に興味ないキャラとかだと逆効果だけど。

結論、一般の人は金に余裕があれば買うべきだが、金に余裕が無いのに無理してハイブランドを買う必要性はない。他の自己投資に回した方が良い。

他の自己投資が何かっていう話は、目的によって異なるのでここでは割愛。

天使のくれた時間から考える幸福論

天使のくれた時間 84点/100点

初めに、この作品は

ジャックが金と地位を手に入れた後、それを失い、子供と奥さんを手に入れた結果、子供と奥さんといた方が幸せだと感じた。ものである。

主語はジャックであり全世界の人間じゃないし。

さらに同じ人間の金と地位の人生と、子供と奥さんの人生、片方だけ手に入れた人生の幸せを定量化して比べたものでもない。彼は両方経験しているし、子供と奥さんの人生に関しては本当に一瞬だ。両方経験したからこそ比べられると思うかもしれないが、人間は様々なバイアスにかかるため、片方だけなら金だけの人生が幸せかもしれないし、この後ジャックの考えが変化しないとも言えない。さらに、ここまでは全て俺のひねくれた考えだとしてジャックがシンプルに子供と奥さんの方が大事だと気付いたとしても、それはジャックであり全世界の人間がそう考えるわけではない。

この前提のもと、考察を進める

 

まず、育ててない子供をいきなり大切に思えないだろ。最初は奇妙に思っていたが、慣れるの早すぎ。まあ、設定自体が奇妙だから時空を通じて繋がっているものがあったとかでいいか。

選んでなかったIfストーリーとは言うが、選んだ側の記憶を持った状態でそれを体験するのは話違くね?両方得ることが出来てるわけだからどっちが大切とか比べられんの?隣の芝は青い状態じゃない?それはまた話違うか。でも、両方を体験してるのは違うよなぁ。

ってか片方しか選べないっていう制限を視聴者に押し付けているように感じる。両方得ることもできるでしょ。高望みするなよっていうこと?

 

お金より愛が大事!みたいな感想の人が多い

まず、ジャックはそんなこと言ってない。ジャックを観てあなたがそう感じた。そしてそれを世界に押し付けようとしている。

愛とお金どっちが大事とかくだらなすぎる。だって人によって違くね、というか幸せって定量化して測れるものなの?ベクトルが違うもの?愛で本当に心が満たされるとかいうけど、それは洗脳だよね。

確かにお金そのものを追いかけるのは、少し空虚かも。けれどゲームのスコアのようなものとして捉えれば、稼ぐこと自体に満足感が得られ、本当に心が満たされるのであれば良いだろう。それを盲目的に悪だとしてしまうこと自体が思考停止ではないのか?本質を見失っていると思われる。幸せは自分の中から生まれるのであれば自分で決めるものであると思う。とするならば愛が本当の幸せだと他人に強要することはナンセンスであるし、自分の本心を考える前にこの映画から愛が幸せだと学べたと言っているやつは何もわかってないと考えられる。

 

おそらく、大金を稼ぐことによって得られる社会的ステータスで満たされるのは大半の人間にとって承認欲求であり、それは欲求を満たした後に虚しく感じるようなものであるのかも。だからこそ悪だという風潮がある。しかしお金を稼ぐことが承認欲求以外の欲求、達成感や満足感、自己実現につながる人、ケースもあり、それらの幸福は空虚なものではないと思う。こうしたものを総合的に判断しなければ何が幸せとは言えないだろう。というか、何が幸せかということについて考えることすら無駄ではないのか。幸せを得たから何か。俺のこの意見を他人に押し付けることこそ間違っている。そいつの意見が仮に俺が思う思慮が足りていないものであっても、そいつがそれで満足しているなら何も問題ないし、関係ない。

自分の気持ちに嘘をつくなとかあるけど、嘘をついたのも自分であってそれが幸せかもしれなくね?何かみんな社会的圧力に飲まれることが悪いことだと思ってるよな

それによって自分の意思がねじ曲げられることは悪いことなのか?圧力に逆らうより飲まれた方が楽であり、その方が価値が高ければ、無理して自分の意思を通す必要なんてない。要は自分の生きたいように、したいようにすればいいだけじゃない?絶対に自分の意思を通そうとか思わなくていい。その上で自分の意見を言いたいけど、周りの目が気になって言えない。という人は、自分にかかっているバイアスとそのバイアスが自分を守ってくれているのか、迷惑となっているのかを考えた上で、バイアスを消すのか、取り入れるのか。自分の価値観とは、それをなぜ変えたいのかについて考えるべき。どこから生まれたのかも。

 

内容としては78くらいだけど、愛とお金について考えさせられたから84